内容より数の驚異

佐々木俊尚氏が紹介されていた、こちらのコラムが中々興味深い内容だなぁと、興味深く読ませて貰いました。 これも「ネット時代の功罪」と言ってしまえばそれまでなんだろうけど、それだけで終わらないくらい今はネットやSNSが浸透していて社会基盤の一つになっている以上、そこに某かの新しいルールというか常識は必要でしょうね。

多分いまSNSを利用している人達の殆どの人は、自分が書き込んでいる「呟き」は、自宅のリビングでテレビや新聞を読みながら「怪しからんなあ」と言っているのと同じ感覚なんでしょうね。逆に、それならば口から出た瞬間に言葉は消えてしまうけれど、今の「呟き」は文字として残り、さらにそこに「いいね」が付いて何となく自分の「呟き」が肯定されることによる「達成感」みたいなものを感じる。当然反論や批判もあるのだけれど、あくまで自分にとっては「呟き」でしか無いものに、いきなり見ず知らずの人間がそんなことを返信してくれば、それって「あおり運転の被害者」みたいな感情がわいてきて「何だこいつ」的気持ちが大きくなるんでしょうね。

「いいね」ボタンがいつ頃どう言う経緯で表れて実装されたのか確かな事は分からないけれど、そうで無くても低くなった自分の発言公開の敷居に対して、その発言に対しての「肯定=達成感」を上昇させる、ある意味触媒みたいな存在になっているように感じます。それまでのBBS等の場合だと、発言することは有る程度出来ても、そこに何か反応するとなると自分の意見を同じように書き込まないとならないわけで、そこで一旦躊躇する様なフィルターが関わるわけです。でも、「いいね」ボタンなら一瞬で自分の気持ちというか反応を表現できて、勝身元も特定されない(ように感じる)。それがどんどん広がっていくと、発言する方はより多くの「いいね」を集めたいという気持ちが膨らむし、反応する方も自分の代弁者みたいな気持ちあって、気軽にと言うよりも「無意識」にどんどん「いいね」をクリックしてしまう。結果的に、発言者にとっては「数」という一種のエビデンスが得られ、それによって反応した側も「自分の行為が正しかった、認められた」という気持ちが生まれてくるというループが完成してしまう。

民主主義に置いて「多数決」というのはある意味正しい選択方法なんだけれど、底から見ると一見このネットの「いいね」現象も正しいように見えます。でも、「多数決」と言うのは、特定された集団の中で議論を尽くした上で、それぞれの責任に置いて判断して結果を出すのに対して、今の「いいね」は不特定多数が何の責任も感じること無く無意識にクリックして居るだけのもの。その意味は全く異なるし、かつ責任の所在に置いても後者の場合は無責任というよりは「存在しない事柄」な訳です。ただし、視覚化されていてそれを利用する存在があるために、集まった数を「武器(=根拠)」として利用することが出来る。言ってみれば、法律で定められたリコール投票は、その結果は厳密に評価されて反映もされるけれど、誰もが何回も投票出来るChange.orgの投票は、その件数だけ「クリック(投票)」があったと言うだけで、有る程度のトレンドを見る材料にはなるだろうけど、それ以上の意味は無い。しかし、そのクリック数を「署名者数(筆/人)」と言えば、それなりの圧力材料になるのと同じですよね。Change.orgは、簡便に全体の傾向を見る道具としては、今の時代にマッチして居るものだと思うけれど、社会的な仕組みを変更するためのツールとしては余りに稚拙で脆弱で、要件を満たしていない。でも、特定の意図を持つ人が利用すれば、その「数」は、正規の「数」とすり替えられて利用することも出来てしまう。

記事の中で筆者の方は、こういう状況を「幽霊性」と表現するのですが、言い得て妙だな、と。ネットの世界でしか存在しないものが、いつの間にか現実社会に影響を及ぼしているけれど、実体は無いのでその「存在」だけが実際のものと誤解されて恐れられたり崇められたりするのは、我々が「幽霊」に感じているものと類似しています。多くの人は、「幽霊」の存在は信じていないけれど、でも「幽霊」という考えがあることは理解していて、それが何となく「実はいるんじゃ無いか」という暗黙の認知というか100%の否定に出来ない要素になっている。多分、本当に極々僅かな懸念なんだろうけど、それが全体の全てに等しいくらいの存在感になっているから、「幽霊は信じないけれど、幽霊への恐怖はある」ような状態が続くんですよね。「いいね」に関しても、本当に「いいね」と100%同意しているわけでも無い。何となく惰性でクリックする人もいるだろうし、そもそも同意の意味で使用していない場合も有るわけです。ただし、それが一人二人ならまだしも、何千何万という人が「いいね」をしていると、つい自分も気軽に参加してしまうのは、その数に自分の存在が希釈化されて、反応することの「責任」を感じなくなるからなんでしょうね。逆に発言者は、有る程度の規模を獲得する事で自分の発言も正当化できるから、そう言う傾向のバイアスもどんどん掛かっていくだろうし。まだネットも無い時代に、そう言う熱狂が狂喜に変わり、世界を不幸にした歴史が有ったことをもう一度考える必要があるかも。唯一の光明は、その「ネット」が今は対抗策にもなる事なんだけれど、やはり一人一人が「幽霊」から「現実の一人」にならないと解決出来ない。そこが次の時代に移るための大きな障害というか壁なんでしょうね。

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