「社説」ではない朝日新聞の「社説」

朝日新聞が2021年5月26日に掲載した社説「夏の東京五輪 中止の決断を首相に求める」は、そのタイトル通り7月の東京五輪開催を首相自ら中止判断することを訴える内容ですが、それが朝日新聞社としてオリンピックパートナーを続けることと矛盾しないかという批判が、当然ながら生まれてきます。それに対して朝日新聞社は、「オフィシャルパートナーとしての活動と言論機関としての報道は一線を画します」との理由で矛盾していないという立場らしい。

「一線を画す」の意味として私が理解するのは、「パートナーだからと言って、賛成意見だけを掲載する事はしない」という意味だと思うんですよね。当然世の中には、賛成・反対・その他意見がいろいろあるだろうから、そう言うものを満遍なく中立的に取り上げる。場合によっては、パートナーとして大会を成功に導くために、あえて厳しい意見を採り上げることもあるでしょう。それは言論機関、あるいは報道機関としては勿論、物事の是非を批評する場合には絶対に必要なことだと思うし、その事に関しては何の反対もありません。問題なのは、今回の発言がそう言う一記事ではなく、「社説」という新聞社にとって社の立場なり意見を代表する属性の中で発信されたこと。社としての立場(=サポーター)と、社としての発言(=五輪中止)が矛盾しているから、それに対して納得のいく説明が求められるわけです。しかし、所属記者の個人アカウントなどでは、社説を執筆しているのは独立した論説委員であり、だから異なる主張が掲載されても問題は無い、と言う理解らしい。


そもそも「社説」とは何か。朝日新聞自身が説明しているので参照すると、最初に以下の様に書かれています。

新聞社の社説とは、その新聞社としての主張や見解を表明する解説記事です。

明確に「その新聞社としての主張や見解を表明する」と書かれています。しかも、続く説明の中で、社説は経験豊富な、各部局とは別の部署に所属する「論説委員」が執筆しているとも書かれているので、例えば一部の部局や記者・社員の意見でも無いわけです。 政治の世界で言えば、総理が「A」と言っているのに、別の閣僚が「B」と言っても「閣内不一致では無い」と言っているようなもの。仮にその論説委員が、朝日新聞以外の媒体で異なる立場の意見を表明するなら、それならまだ理解は出来る(でも、立場的には拙いと思うけれど)。でも、本体である新聞媒体の中の、社としての主張や見解を表明する場所での発言が矛盾している事は確実に「言行不一致」だと思う。

例えば、社説ではなく「天声人語」とか「論座」当たりに掲載するのであれば、まだ理解は出来る。でも、それでも報道機関として立場と見解の不一致に関しての説明は居ると思うし、それが出来ないのであれば報道内容に対しての信頼性欠如の問題にも発展すると思う。少なくとも

「朝日新聞社としてオリンピックパートナーを務めているが、現状では開催に対して大いに疑問を感じる。現状では、大会開催は不適切と考えるし、仮にそれら問題が解決されないままに大会開催が強行されるのであれば、パートナー返上も検討する必要が生まれるだろう。」

位のことを書くのであれば、それはそれで見解としての不一致は無いし、私は賛成しないけれど一つの主張として意味あるものだと思う。 でも、肝心の社説の中にはそんなことは一言も言及されず、あくまで政府批判を中心に反対を主張しているようにしか読めない。そこが、報道機関ではなく、単なる「宣伝機関」と感じられる最大の理由だと思いますね。朝日新聞の「社説」は、「社説風オピニオン」と名称を変えたらどうだろうか。それなら全て納得出来ますね(マテ)。

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