ひっくり返る定義

ネットで見つけたものですが、神崎ゆき氏による、先日地裁判決が出された所謂「#KuToo本裁判」後の話についての考察という記事。note だけでなく、twitterも開設されていて、彼女の背景までは分からないのですが、非常に理性的且つ論理的に話を書かれていて好感を持てるネット人というのが第一印象。その印象に違わず、この記事に関しては、自分も気をつけながらも時々無意識に陥る危険性を気づかせてくれます。

それは、何かの事例を説明するときに、分かりやすく説明しようとして身近な事例や著名な事例を元にして「所謂〇〇という事と同じで~」みたいな言い方をする事。勿論、的確に元の事例にあてはなる言い換えや例えも存在するだろうけど、多くの場合は分かりやすさ・一般化されることにより、本来その事象が定義されるべき厳密な条件の幾つかあるいは全部が曖昧になりがち。この記事に書かれているように本来含まれないような条件まで範囲が広がり、境界線が曖昧になり範囲が広がってしまったり、本来の定義の範囲から逸脱してしまう場合も。それって、その記事を読んだ人の考えも揺らぐことになるし、話を進めている自分の考えも最初に考えたことから逸脱していく原因になってしまう。別に論点をずらす目的が有ったわけじゃ無いけれど、結果的に自分が言いたかったこととは外れた方向に話が進んでしまい、後で読み返してみると何か自分の考えがズレて散漫な内容担ってしまう事も。結局は、自分の言いたいことが固まっていないから、曖昧な表現をしてもそれを修正する意識が欠如して、結果的に本当に伝えたいこととは異なる結論に終わってしまう。

それでも、自分で自分の記事を書いている分には、後から自分が気がつくとか、他の人とのやり取りとかで気がつく機会もあるだろうし、それ自体自分の考えの範疇だから良いのだけれど、今回の様に著名人だとか、広く公開されている場でその様なことが発生すると、その間違った定義なり指摘が「事実」として拡散したり、そこから新しいカテゴリー化現象が生まれてしまい、元の意味や意図を見失ったまま議論も発散したりすることは、これまで何度も見てきたこと。それによって、不要な対立みたいなものが先鋭化したり、互いに元々の理由とは離れた視点での議論、しかも感情的な物言いに終始するような、不毛な議論だけがどんどん広がっていってしまいます。そうなると、もう手が付けられなくなるんですよね。そして、記事の中で最後に書かれているように「定義の崩壊」が発生してしまうと、元々の言葉の意味が失われて「言葉のレッテル化」が生まれてくる。記事ではそれに対する危惧で終わっているんですが、私としてはその「言葉のレッテル化」を中心に「新しい権力構築・権力関係」がさらに生まれてくるとのではと感じています。

その一つが「リベラル」じゃ無いでしょうか。2000年代中盤くらいから、「保守」の自公政権への批判や不満が高まり、「リベラル」を標榜する当時の民主党等の野党勢力が支持を伸ばし、その後政権を奪取するものの、3年余りで再び自公政権へ回帰。アメリカの二大政党制をお手本に、「保守」に対抗する勢力として「リベラル」を謳い、確かに当時の公約なり政権目標はそれに近いものだったかもしれないけれど、結局は民主党等の連立政権が与党となれば、やっていることは例えば沖縄の基地問題や原発問題等、それまでの保守政権の路線を継承するしかなく、それを批判されると「自分達は違う」と「反自公・反保守」言うだけの意味で「リベラル」を使用し続けてきました。でも、その後の第二次安倍政権が「よりリベラルっぽい」とは多くの人が理解しているわけで、そこで「定義の崩壊」が生まれたけれど、旧民主党系政党は「言葉のレッテル化」を継続して今に至ると言って良いのでは無いだろうか。そして、それに呼応してなのか何なのか、一部メディアがその「リベラル化」を支持し、論調にしても報道姿勢にしても、「リベラル化」から派生して「反リベラル=与党=保守=独裁=悪」みたいな図式を作ってきている気がします。言葉自体は、時代とともに変わっていくものではあるけれど、自分がそれを受け入れるのでは無く、「他人から強要される=レッテル化」されることが問題の根本ですよね。その「レッテル化する側」が新しい権力として、それを利用する。しかもそれが「言論の自由」の名の下に行われることがしばしばある事が、一番の問題点だと思います。

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