「なぜリベラルは敗け続けるのか」の著者岡田憲治氏へのインタピュー記事(その1、その2、その3) 。著者の岡田氏に関しては、この記事で初めて知った方なんですが、リベラル派の政治学者として有名な方らしい。また、この書籍に関しても、2年前に出版されたものなんですね。今でも「リベラル派・左派」と呼ばれるグループの評判は芳しくないと感じるのだけれど、すでに2年前にこう言う書籍が出ていたのは驚きで、一寸新鮮な驚きを感じました。この時点で、岡田氏の警鐘に少しでも耳を傾ける余裕があれば、現状ももう少し変わっていたと思うのですが。
書籍を読んでいないので、このインタビュー記事の中身だけですが、最初に指摘されている「潔癖主義」という言い方は面白い。自分の主義主張に対して「潔癖主義」に陥るというか、別の言い方をすると「純血主義」とも言えるかも。ここでも指摘されているんですが、野党が政権を取り戻すには、現実路線に回帰しなくては今の大多数の国民からの支持は得られないわけで、その為には連立政権が一番可能性が有る話。実際野党の選挙協力は進んでいるけれど、その中の温度差が外野から見ていると最大の不信感じゃないだろうか。政権という「結果」ではなく、そこに向けて努力しているという「過程」を言いつくろうことに専念しているのが次のページで指摘されている「清々しい敗北感」にも通じる話ですよね。このあたり、日本人が好む考え方にも近いと思うので、それなりの支持を今でも保っていられるんでしょうけど、それでもいつか結果を出さないと見放されることになると思うんですが。最後のページでは、保守に関して言及されていて、恐怖心から攻撃的になるという話が登場しているんですが、まさにそれと同じ事がリベラル派にも起こっているように感じます。それまでは、国民も自分達の主張に耳を傾けてくれて、一時は政権奪取もしたけれど、結果的にそれが失敗し「後が無くなった」という焦燥感みたいなものが、この10年間にどんどん膨らんでいるんじゃ無いだろうか。
保守派にしてもリベラル派にしても、個人的にはどっちもどっちだと感じるんですが、勢力(?)的には保守派層の方が人数が多い分、突拍子も無い事を言う人も多いけれど、真っ当な意見を言う人も同じくらいいて、まだ話が出来る環境があるように思います。それに対して、リベラル派と称される人達は、どうしても過激なあるいは先鋭的な人ばかりがクローズアップされていて、それだけで某かのリソースを消費して建設的な話合いをしたいという気持ちが失せてしまう。それこそが、岡田氏が著書の中で言っていることなんでしょうけど、余りに「俺が私が」と自分達の主張だけを突きつけるのが「今のリベラル派」という認識が固定してしまった気がします。先日ネットで見つけた名言に、「1を聞いて10を知る事も大切だが、人のは無しを聞くときはまずは10迄聞け」というようなものがあり、いゃいゃごもっともと膝を100回位叩きました(笑)。そうなんですよね、先ずは相手の話を聞け、と。それはどちらにも言えること。こちらが10まで話をさせて貰ったなら、相手にも10まで話をさせろ。互いに、言う事は全部聞いた上で、それに対しての反論なり批判なりをするべき。それを、1を聞いたところで勝手に10を想定して話の腰を折ったり、待った違う方向に曲解して議論が進むから、いつまでたっても妥協点は生まれないし、互いに理解することも無い。それは、討論している当事者は某かのカタルシスを感じるのかもしれないけれど、異なる議論から何か新しいアイデアを期待している国民にとっては、自己満足を見せつけられているようで不愉快なだけなんですよね。
岡田氏が最初のページ中段で指摘されているように、野党としても決して全て反対しているわけでは無い事は分かるんですが、それを「メディアの責任」とするのはちょっと問題だと思います。そう思うなら、野党としてちゃんと自分達の実績を伝えればいいわけで、その努力をしていない事が最大の問題だと思う。想像するに、自分達の実績としてアピールする事は良いのだけれど、与党案に賛成した、と言う点が納得出来ないんじゃ無いだろう。それも、つまらない自己満足故だと思うけれど、そう言うプライドみたいなものや、身内受けするパフォーマンスを強調する政治姿勢も、メディア以上に責任があると感じますね。アメリカの二大政党制であっても、共和党・民主党、それぞれの政策が180度異なっているわけでは無くて、多くの部分では同じような政策を掲げているわけです。その中で、外交だったり、社会保障だったり、基本的な部分での違いで2派に分かれているだけ。所が日本の与党vs野党となると、完全に相手を否定しないと納得しないという雰囲気が強い。日本維新の会とか、最近の国民民主党あたりは歩み寄りで現実的な空気を感じるけれど、立憲民主党にしても共産党にしても、自分達の主張が正義みたいな印象しか受けない。自分達が政権を取れば、日本という国のシステムを変えるみたいな印象を受けるから、多くの国民は距離を置きたいと考えるのでは。それに、散々美味しい政策を並べていざ政権担当をしたら殆どが反故にされた記憶は、やはり未だに根強い。そこはやはり岡田氏も指摘する「お礼と謝罪が出来ない」という一言に集約されている気がします。一党独裁では無いけれど、特定勢力が長く政権担当をしていて、それによる弊害が蓄積していたのが日本の問題点。2009年の政権交代は、その問題解決が期待されたけれど、代わった先見担当者がそれまでの与党以上に力不足で役立たずだったわけで、だからこそ今必要なのはつまらないプライドや黴びたイデオロギーではな、経験から得た反省と気付きの実現しか無いと思います。そう言う意味でも、当時の中心議員が未だに中心でいる組織を、まず新陳代謝させることが一番必要なのかも。
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