自分の武器で戦う

今年第165回芥川賞を、台湾出身の李琴峰(り・ことみ)氏が受賞。日本語以外を母国語とする作家の受賞は二人目になるということで、かなり注目されて報道されたんですが、それ故過去の発言も発掘されることになり、それが一寸した騒動に。 

以下略ちゃんのまとめ記事を例によって参照させていただくと、反安倍、反自民的発言を多く囲んでいたものの、今回の受賞が理由なのか、それらを削除しているという話。さらには、受賞したとき会見では「忘れてしまいたい日本語は?」と司会者に聞かれて、「美しい日本」と答えている。以下略ちゃんのまとめ記事にはその時のビデオもリンクされているんですが、李氏が答えた後「どうしてですか?」という質問を何でしないのだろうという疑問。以下略ちゃんのまとめ記事では、少し前に安倍晋三前総理が出版した「美しい国へ」で使われた「美しい国、日本」を間違えて「美しい日本」と言ったのでは、と考察。文字通り「美しい日本」という言い方を探すと、川端康成氏の「美しい日本の私」という、ノーベル賞受賞時の記念講演の内容をまとめた書籍に行き当たるらしいのですが、それを意識した発言では無いだろうなぁ。

彼女の、それら削除している発言を見ていると、彼女がなんでそう言う考えを持つ様になったのか、その背景が分からないので何とも言えないけれど、どう言う考えを持つかは本人の自由。立憲民主党に近い立場という話も出ているけれど、野党第一党の考えと近いと言う事は、それだけ日本で生まれている考え方なわけだから、それ自体不思議では無い。ただ個人的にちょっと残念というか嫌悪感を感じるのは、その「言い方」「書き方」「表現の仕方」という所。普通の人がつい弾みで書き込んでしまったとしてはも、一寸なぁ都感じる言い方を、書き物のプロの作家がする事は、やはり一寸意味が違ってくると思う。

過去のそれら書込をしたときの考えと現在の考えが違うのであれば、「あの時はこう言う理由で、今はこう言う理由で、こう考えている」と言えば済むだけの話。考え方が同じであっても「あの時も今も、こう言う理由からこう考えている」と言えば良いだけの話し。それに対して、いずれにしても賛否は出てくるだろうけど、自分の意見や考え方として確立しているなら、それを維持すれば良いだけの話し。流石に、法律だったりSNSのルールに反する内容は駄目だけれど、削除されている書込を見ているとぎりぎり徳俵で残っている感じはするけれど、それも一つの意見と考えられるもの(だって、今の野党と同じ意見な訳ですから)。だったら、作家ならば文章で、あるいは作品で表現するのが、最大の武器であるし一番正しい反証行動じゃないだろうか。それを削除して無かったことにするのは、作家として負けを認めたことになると思う。多分、芥川賞を受賞して、今後の出版販売を考えると変な波風を立てたくないという出版社側の事情もあったんだろうけど、それって言い方は悪いけれどビジネス(=お金)の為に自説を封印するという恥ずかしい行為じゃ無いのか。彼女の作品は読んだことは無いけれど、作家なら作品でちゃんと反証して欲しいと思う。

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